角館散策記

          第五章  別れ    

 栃木県出身の画家小杉放庵は歌人としても名高く、しばし角館町を訪れ、角館を詠んだ歌を残しました。
大威徳の山にひとすち
           
よこたはる あさ雲のある
                        
かくのたてを去る
 この一首を刻んだ碑は昭和29年JR角館駅構内に建立されましたが平成9年3月に秋田新幹線開業を記念して、新たに碑に刻んでJR角館駅の前に移設されました今回は、小杉放庵の歌碑を紹介しましたので石碑を探訪しましょう。 
  「百穂歌碑・生家碑・筆塚
 平福記念美術館の前の旧制角館中学校跡地に平福百穂歌碑があります。昭和14年に田口掬汀らが建立したもので、始めは旧佐竹邸にありましたが現在地に移転されました。題字は川端龍子、百穂の肖像は掬汀の子の田口省吾その下に百穂の歌二首が自筆で刻まれています 穂は明治10年角館の横町で生まれました。父穂庵は画家として有名で、祖父分浪も絵心のあった人としてしられています。
  角館中学校校歌の稿の碑 
 平福百穂らの尽力により、大正14年に開校した角館高校の校歌が決まるまでのいきさつが刻まれています。
  小田野直武の碑
 西洋医学の解剖書解体新書の挿絵を描いた。碑の裏にはオランダ語で、オランダの芸術と化学を通じて日本文化の発展を促進する。
                       
オランダ公使 J.Cパブスト 
★  少年鼓手浜田謹吾の母の歌碑
 九州の大村藩から病弱の父に代わり戊辰戦争に参戦し、15歳で戦死した謹吾の母の和歌を刻んだ碑が報身寺にあります。 
二葉より手くれ水くれ待つ花は
                   君がためにぞ咲くやこの時
   田口秋魚筆塚」
 日本画家 天寧寺に建てられています。 
 角館駅を後にして、角館東小学校から外ノ山、花場山へと足を向けたそのふもとに、芦名家の菩提寺となっている天寧寺が有ります。寛永年間に芦名義勝を開基として開山したお寺で芦名氏が盛んなときはあわせて寺も隆盛したそうです。芦名家三代の墓や四歳で亡くなった千鶴丸供養の大仏などが祀られています。天寧寺の裏山に花場山があります。  その花場山の遊歩道には百穂の筆塚があります、上新町を通りすぎ火除けと呼ばれる広場の角に藤義亮の胸像があります。佐藤義亮は日本を代する文芸書を中心とする大手出版新潮社の創立者。角館町岩瀬の荒物屋の四男に生まれる明治24年角館小学校卒業後、文学を志し学友二人と東京へ出て印刷工になりました。明治29年に投書雑誌の「新声」を創刊し、新声社をおこし単行本の出版をはじめますが、経営に失敗明治36年に新潮社をおこします。  
角館からは文化人が多く生まれていますので角館の人物誌をお届けし たいと思います。
武村文海
 角館生まれ、学んだ絵は装飾画風です。文海の弟子には平穂庵〔平福百穂の父〕、その父の平福文浪、大坂東岳らがいました。
平福穂庵
 角館生まれ、武村文海に学び明治13年秋田勧業博覧会で「乞食図」が一等になり注目を集めました。門人には寺崎広業、子の平福百穂などがいます。
平福百穂
 角館が生んだ日本画の巨匠、明治26年18歳で上京、川端玉章門下で学び東京美術学校教授をつとめ、秋田蘭画を世に広く紹介したことでも有名です。
☆ 武藤鉄城
 生まれは秋田ですが、角館を舞台に、地方史考古学民族学の研究家として活躍しました。
富木友冶
 民族学の研究家、角館図書館初代館長
☆ 高井有一
 小説家 芥川賞受賞
山谷初男
 角館高校卒業後、上京して俳優の道へと進みます。生家はJR角館の駅前のやまや旅館ですが、生家を駅裏へ移築したはっぽん館〔演芸場〕として使用しています。
渡辺豊和
 角館高校卒業後、福井大学建築科卒業、建築家、最近では秋田市立体育館を設計しています。
塩野米松
 出版社を経て作家、平成4年、5年.、6年と立て続けに芥川賞候補になる。
 佐藤義亮の胸像のある日除け広場にはモダンな時計台と役場の掲示版が設置されていたが私が訪れたときは、時計台は午後2時半をさし小雨が降っていた。役場を左手見ながら右折すると武家屋敷通りに出ます 武家屋敷は生活の場所であるととも軍事施設でもあり町全体で一つの城郭を形成しています。通りに立てば、いまもむかしと変わらない風が吹き抜けていきそうな風情が感じられます  
それでは通り沿って武家屋敷を紹介しましょう。
小田野家
 中級武士の屋敷。 「秋田蘭画」で有名な小田野直武がでた小田野家は、今宮氏配下から佐竹北家の家臣となった家柄です。
河原田家
 上級武士の屋敷。 「電話1番」の札が掛かる薬医門のある河原田家は、町で1番はやく電話をつけ、電気事業に取り組んだりして時代の先端を行く家柄でした
岩橋家
 中級武士の屋敷。多くの樹木が茂る岩橋家の庭園には樹齢250〜260年と推定されるカシワの巨木は、秋田県内でもめ珍しいものといわれています。
陶(すえ)家
 中級武士の屋敷。切妻型妻入り大破風がある玄関を持つ陶家は、旧城中から移した舞良戸(書院造りの建具のひとつで引き違い戸)が取付られ格式をしのばせます。
青柳家
 上級武士の屋敷。青柳家はもともと芦名氏に仕え、芦名氏断絶ご佐竹北家に仕えた家柄です。格式が高く大正年間には90町歩を超える耕地を持つ地主でした。塀は「ササラ子下見塀」と呼ばれるつくりで「のぞき窓」もついています。
石黒家
 上級武士の屋敷。義隣の時代に佐竹北家に仕え、財政面の役職についていた家柄です武家屋敷のなかでは、現存する最も古いものです。青柳家同様正面玄関と脇玄関があります。このような玄関を持つのは身分の高い武士の家を表しています。
松本家
 下級武士の屋敷。松本家の母屋は萱葺き屋根で、正面の庇は杉皮葺きの置き石屋根になっています。角館特産の民芸品イタヤ細工の実演も見られます。
 朝もやのたちこめる、武家屋敷通りには、昨日の賑やかさは無くただ静かに時が流れていた私と同じように、肩から大きなバックを下げ、手にカメラを持った人たち5〜6人がカメラポジションを探してはシャッタを切っていた。お互い邪魔にならないよう気をくばりながら、気に入った場所で写真を撮っている。私もその中のひとりではあるが。
 また、町の観光課の、昔の姿に近ずけるための努力が各所に見受けられます、まず、武家屋敷通りでは、昔の路面の高さにするために30センチ掘り下げられ車道と歩道の区別も無く、路面も落ち着いた薄茶色に舗装されています。また、角館伝承館前の「枡形」(ますがた・軍事防衛上の道路の作り方)と呼ばれる個所も、クランク状のカーブになっていたものが本来の直角に戻りました学生のころ、見た風景が何一つ変わっていないのが、不思議で本当に変わっていないのか、当時は舗装は無かったと思うぐらいでつまでもたたずんでいました当然、商店街は大きくかわったことは、間違いありませんが、そのギャップがたまらなく、また懐かしく、いつまでこのままであってほしい.........と思って武家屋敷をあとにしました。 
檜木内川の桜
 武家屋敷を後にし日除けの広場を右に曲がりしばらく行くと檜木内川にさしかかります。角館町の西端を南下し玉川と合流して雄物川にそそぐ檜木内川の流れに沿って古城山のふもとから内川橋にいたる約2キロの堤防左岸におよそ400本のソメイヨシノが四月下旬から5月始めにかけて咲き誇ります。
角館町役場には、その名も「さくら係」というめずらしい担当があり、毎年美しい花を咲かそうと年間を通して保護保存に励んでいます
 檜木内川堤の桜のはじまりは、昭和6年経済不況と凶作にあえぐ東北地方を救済するため政府が東北振興事業をおこしたことからです。 町ではこれを檜木内川の左岸堤防の建設護岸工事にあてました昭和8年に堤防は完成し、皇太子(現天皇陛下)の誕生もありました。翌年の昭和9年、皇太子の誕生祝いとあわせて堤防完 成を記念して、1600本のソメイヨシノが植えられました
 65年ほどたったいま、周囲と見事に調和した景観が生まれています。 桜並木が2キロも続く檜
内川堤は国の名勝に指定されていますが、正直いって、角館に来るまで檜内川の桜の始まりは知りませんでした
武家屋敷の桜と同じと思って いたのですが、まだ約65年しか経っていないのです。武家屋敷のシダレザクラは4 00本余ぐらいあります
 樹齢300年近いと思われる古木もあり、樹高が20m を越すものもあります。このシダレザクラは、角館佐竹北家二代義明の室が京都三条西家から、お輿入れの際に持参したものが最初と伝えられています。このうち153本が昭和28年四月秋田県天然記念物に指定され、さらに昭和49年には「市街地に古くから受け継がれたシダレザクラの群として他に例をみないものである」という理由で国の天然記念物に指定されています  桜の木と桧木内川に別れいつしか、喜美枝さんの眠る西覚寺へと足を速めた。境内の右奥のケヤキの木の下にひっそりとたたずむ小さな墓石にこびり付いた苔が喜美枝さんとの逢えなかった長い時間を表していた。 墓石に手を合わせつつ永のご無沙汰を詫びていた。頬をつたわる涙は落ち葉に染みていった。   

                                          作:岡部詔重              この物語はフィクションであり登場する人物などは実在の人物とは関係ありません